
1509-10年 フレスコ 横幅770cm バチカン宮殿「アテネの学堂」
1508年、ラファエロはブラマンテの推薦でローマへ行きました。
そしてローマの人気画家としての地位を築きました。教皇はラファエロ作のシスティーナ礼拝堂の「著名の間」の絵をみると、
たちまちラファエロを気にいってしまい、当時ブラマンテの推薦でローマに来ていたペルジーノら数人の画家を
即、全員解雇してしまいました。
ラファエロはラファエロの部屋と呼ばれる4つの部屋に壁画を残しました。
「著名の間」(1508-11年)、「ヘリオドロスの間」(1511-14年)、「ボルゴの火災の間」(1514-17年)「コンスタンティヌスの間」の壁画を描きました。
ラファエロは多くの弟子たちに手伝ってもらい共同作業で完成させました。
壁画で最も有名なのが「著名の間」です。そこには「アテネの学堂」が描かれています。
アテネの学堂には古代哲学者や賢人たちがふん装して描かれています。大聖堂で議論している様子が、理想的な集会の場面として表現されているのです。
プラトンはレオナルド・ダ・ヴィンチ、ヘラクレイトスはミケランジェロ、ユークリッドはブラマンテが、
ルネサンスの代表人物がモデルとなって描かれています。レオナルド扮するプラトンは中央左で天を指しています。

階段に腰掛け、頬杖をついているミケランジェロ扮するヘラクレイトス、

右前景で身を傾けてコンパスで図表を描いているブラマンテ扮するユークリッドが配されています。
また、ラファエロは自分の姿まで描きました。

右端から二番目に帽子をかぶった男のとなりに顔だけをのぞかせているのがラファエロです。
「アテネの学堂」は、盛期ルネサンスの巨匠が一つの場面に収まれた記念碑的な存在でもあるのです。
「著名の間」は「アテネの学堂」・「聖体の論議」・「パルナッソス」の壁画から成っています。
1514年建築家ブラマンテが亡くなると、ラファエロはサン・ピエトロ大聖堂の造営の総指揮を任せられます。
当時は画家ですぐれていれば、建築家としてもすぐれていると考えられていたのです。また、システィーナ礼拝堂のタピストリーの下絵を担当したり、
モザイクのデザインまで手がけるといった多才ぶりを発揮しました。
イタリア旅行なら⇒♪日本旅行のイタリア特集♪

バチカン美術館鑑賞オプショナルツアーの予約なら⇒
![]() 名画・油絵 ラファエロの名作「アテネの学堂」 |
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
src="http://pagead2.googlesyndication.com/pagead/show_ads.js">
Related Articles
No user responded in this post
Leave A Reply